土肥 政繁(どい まさしげ、生年不詳 - 天正18年(1590年))は戦国時代の武将。越中国弓庄城主。通称、四郎。官位は美作守。娘は下秀久の室。
越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代より新川郡堀江庄の地頭職として名が見える。戦国期には、神保長職の膨張に伴いこれに属した為、椎名・上杉氏との抗争に巻き込まれ没落し、弓庄城に拠った庶流の政繁が上杉謙信に臣従して辛うじて命脈を保った。
天正6年(1578年)に謙信が急死すると、多くの越中国人と同様、織田方に寝返った。しかしその後上杉方に復帰したらしく、同9年(1581年)8月、佐々成政により城を囲まれている。この時は何とか城を持ちこたえたが、上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)に降伏した。
しかし本能寺の変が起こるとまたしても上杉方に寝返る。同11年(1583年)2月には成政の越後出兵の隙を突いて太田新城を奪うなどの働きを見せるが、成政・秀吉・景勝の三者が和睦を結ぶと進退窮まり、弓庄城を立ち退き、越後に落ちて上杉景勝を頼った。
同12年(1584年)10月、上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげたが、上杉家中では冷遇され、同18年(1590年)、越後国能生で病死した。一族はその後最上義光、村上頼勝などに仕えた。
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佐々成政にまつわる、地元の伝承
祝 重正(はふり しげまさ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。弥三郎。姓は岩井、諱は「吉勝」とも。
■生涯
尾張国の住民。古くから織田信長に側近として仕え、奉行などに用いられた。
初見は『信長公記』巻首における天文年間後期に開かれたと思われる年不詳7月18日の津島盆踊り大会で、この時重正は芸として巧みな鷺の鳴き真似を披露している。
天正元年(1573年)9月10日、信長を鉄砲による狙撃で負傷させた杉谷善住坊の尋問を菅屋長頼と共に行なった上で、鋸挽きによる処刑を執行した。また、外交官としても陸奥の伊達氏との窓口となっており、同年10月の下旬に伊達輝宗から贈り物を受け取っている。
天正6年(1578年)6月の播磨神吉城攻めの際には検使の大津長昌と共に派遣され、菅屋長頼・矢部家定・万見重元・長谷川秀一と番替で検分を行った。天正9年(1581年)には稲葉通明・高橋虎松らと共に所領の加増を受けている。
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死亡した後には、信長二男の織田信雄に仕え、尾張稲葉に550貫文を知行していた。のち、信雄没落後に豊臣秀吉に仕えたらしく、『太閤記』では文禄2年(1593年)4月9日条にある名護屋城での能楽会で、重正が狂言を演じる姿が記されている。また文禄・慶長の役に同行した御伽衆の中にも名がある。
これが史料における最後の登場であり、没年などについては定かでない。
山口 重政(やまぐち しげまさ、1564年4月6日(永禄7年2月25日)- 1635年10月29日(寛永12年9月19日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。山口氏。尾張出身。常陸牛久藩の初代藩主。家紋は大内菱。星崎城主。従五位下・但馬守。妻は小坂雄吉の娘於奈
■概要
姓は多々良氏。山口氏は室町から戦国時代初期にかけて西国の有力大名として名を馳せた大内氏の庶流で、尾張に住し織田家の家臣となった。山口盛政の長男。母は岡部正房の娘。のち尾張国寺辺城主・山口重勝の養子となった。
正室は尾張国春日井郡上条城主の小坂雄吉の娘於奈。子に山口重信(長男)、山口重長(三男)、山口弘隆(四男)、山口重恒(五男)。養女は成瀬正武正室、高木正成正室。子孫は牛久藩として続く他、水戸藩の家臣として続く者もあった。
■歴史
・尾張時代
はじめ織田信雄の家臣・佐久間正勝に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の一員として、尾張国下市場城・前田城・蟹江城が次々に落とされるなか大野城を死守して豊臣秀吉方の滝川一益と戦った(蟹江城合戦)。天正14年(1586年)、家督を相続した。
・2度の改易
天正18年(1590年)、主君の織田信雄が豊臣秀吉の駿河転封を拒否して改易となったため、信雄に従って下野にまで従う。その後、徳川秀忠の家臣となり、5000石を賜った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀忠軍に従って真田昌幸が守る信濃上田城攻撃に参加する。その戦功により戦後、常陸牛久1万石の大名となり、慶長11年に大番頭に任じられた。
しかし、慶長18年(1613年)に大久保忠隣の養女(石川康通の娘、または石川忠義の娘)と嫡男・重信が勝手に縁組したことを咎められて改易された上、武蔵の龍穏寺に蟄居させられた。
・山口家再興
蟄居後も重政の山口家再興にかける執念は凄まじく、翌年に大坂の役が始まると、徳川家康に対して「自らが豊臣氏に与した後、豊臣秀頼を暗殺するので、その代償として御家再興を許してほしい」とまで進言している。しかし、これは家康によって拒絶された。慶長20年(1615年)の夏の陣では、井伊直孝軍に属して若江の戦いで奮戦するが、前に出過ぎたため長男・重信は木村重成に討ち取られ、弟・重克も戦死した。
後年それらの戦功により、寛永5年(1628年)、常陸国牛久で1万5000石の大名に返り咲いた上、奏者番に任じられた。このとき木村重成の子孫は牛久藩に召抱えられたとする伝説がある。寛永12年(1635年)9月19日に死去した。享年72。
なお、牛久山口氏は「弘」を通字として使うが、若江の戦いにおいて井伊勢との戦いで戦死した木村重成の妹婿・山口弘定と、関ヶ原の戦いの際に加賀大聖寺城で戦死したその兄の右京亮山口修弘も『弘』を名前に含んでいる。彼らが同族であった場合、木村重成とは間接的に姻戚であったことになる。
小坂雄長(おさか おなが、天正4年(1576年) - 寛永13年8月29日(1636年9月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、旗本。柏井城主の小坂雄吉の子。通称、助六郎、孫九郎。兄に小坂助六郎雄善(『武功夜話』のみ)、姉に於奈(山口重政室)、弟に小坂一長(肥後藩士)、山口吉長(旗本小坂家の祖)。子に小坂雄忠、小坂雄綱。
■概要
織田信雄に仕え、その諱を戴き雄の字を名乗ることとなる。その後、信雄の命により豊臣秀吉に仕え、文禄の役の際には肥前国名護屋城に赴く(その際、父・雄吉は同所で死去している)。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島正則の配下として東軍に属した。
戦後は松平忠吉に仕えたが忠吉が若くして没し、その後は福島正則の下に身を寄せたり、各地を流浪したりしていたが、姉の夫である山口重政が雄長のことを酒井忠世に上申し、寛永10年(1633年)に1000石の旗本として取り立てられた。寛永13年(1636年)、上野国草津において61歳で死去。法名は宗最。
辻 重勝(つじ しげかつ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。田中吉政家臣。通称、勘兵衛。
関ヶ原の戦いで岐阜城を攻略。石田三成追撃を開始。河渡で交戦し、石田軍の殿杉江勘兵衛を討った。吉政が関ヶ原の戦功で筑後国柳川城32万石の大名になると、猫尾城代を勤めた。
杉江勘兵衛、羽柴秀勝家臣の渡辺了(勘兵衛)とならんで「三勘兵衛」と言われる。