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2016年8月19日金曜日
本多忠朝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年)
死没 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
別名 内記(通称)
戒名 三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
墓所 一心寺(大阪市天王寺区)、良玄寺(千葉県大多喜町)
官位 従五位下・出雲守
幕府 江戸幕府
主君 徳川氏
藩 上総大多喜藩2代藩主
氏族 本多氏
父母 父:本多忠勝 母:阿知和右衛門玄鉄の娘・見星院
兄弟 小松姫(真田信之室)、もり姫(奥平家昌室)、忠政、忠朝
妻 正室:一柳直盛の娘
子 政勝、千代(本多政朝正室)、娘(山口某室)、出雲守
本多 忠朝(ほんだ ただとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。上総大多喜藩2代藩主。
■生涯
天正10年(1582年)、徳川家康の重臣本多忠勝の次男として生まれる。父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。
慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴ一行のスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待し。ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
新田開発を積極的に行い、慶長14年(1609年)に国吉原、慶長16年(1611年)に万喜原の開発を奨励している。
慶長15年(1610年)、父の忠勝は亡くなる前に、軍費として1万5000両を忠朝に譲ろうと遺書を残したが、忠朝は兄の忠政は所領も広く所用もまた多いだろうといって、この金を受け取らなかった。忠政は亡父の遺命にそむくべからずといって互いに金を受け取ろうとしなかった。結局、兄弟で折半することになった(『徳川実記』)。
慶長19年(1614年)、安房国の里見忠義改易の際には、佐貫城主、内藤政長とともに館山城の破却と近辺の守備を行う。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが戦死した。
死の間際、忠朝は「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれ、死後「酒封じの神」として崇められている。忠朝の墓は一心寺(大阪市天王寺区逢坂)の境内にあり、「お骨仏の寺」として知られる。後に忠朝の骨は分骨されて、良信寺(良玄寺)に葬られた。
家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝を大和郡山藩主として封じた。
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小野忠明
小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)(永禄8年(1565年)とも)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪。徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に忠常。吉明ともいう。
■経歴
先祖は大和の豪族・十市氏の後裔で、安房国朝夷郡丸山郷神子上の郷士で里見氏の家来。曽祖父の神子上大藏は里見十人衆頭600石。祖父の神子上庄藏は100石で天文3年(1535年)の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡(『房総里見軍記』『里見九代記』)。父は神子上重(神子上土佐)。母は小野氏。
安房国(現千葉県南房総市)に生まれる。はじめ里見義康に仕え天正17年(1589年)11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『里見代々記』にある。やがて里見家から出奔して伊東一刀斎に弟子入りする。そしてここで兄弟子に当たる善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者に選ばれたとされる。
文禄2年(1593年)、伊東一刀斎の推薦で徳川家康に仕官して200石の禄高を与えられた。徳川秀忠付となり柳生新陰流と並ぶ徳川将軍家剣術指南役となった。このとき、名を神子上典膳吉明から小野次郎右衛門忠明と改名した(『寛政重修諸家譜』)。なお、小野姓は忠明の母方の旧姓であり、忠の字は指南役に付いた秀忠の一字を冠したものといわれる。
小野派一刀流の開祖とされることが多いが、忠明自身はこれを称しておらず、忠明の子・忠常が小野派一刀流を称し、弟といわれ一刀斎の姓である伊藤姓の継いだ伊藤忠也の流れの忠也派一刀流を含め、小野家の流れは小野派一刀流と呼ばれるようになった。後に小野派一刀流、忠也派一刀流と呼ばれた系統の開祖は共に伊東一刀斎であるが、一刀流自体の嫡流に関しては諸説がある。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で蟄居を命じられている。その後、結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石。
慶長19年(1614年)からの大坂の役にも従軍して武功を挙げたが、忠明は生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の役の後、閉門処分に処せられた。
寛永5年(1628年)11月7日、60歳で死去した。下総国埴生郡寺臺村、永興寺に葬られた。 現在の千葉県成田市、成田高校の裏山に墓がある。
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赤松祐高
生誕 永禄2年(1559年)
死没 慶長20年5月28日(1615年6月24日)
官位 伊豆守
主君 豊臣秀吉→秀頼
氏族 赤松氏
父母 父:赤松政秀
兄弟 広貞、斎村政広、祐高、さこの方(足利義昭侍女/側室)
子 祐則
赤松 祐高(あかまつ すけたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
■生涯
永禄2年(1559年)、赤松政秀の子として誕生。天正5年(1577年)、中国地方に侵攻してきた織田氏の家臣・羽柴秀吉に兄・政広と共に降伏する。以後も秀吉に従い、半田山家鼻城1万石を領す。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは兄同様、はじめ石田三成の西軍に与するが、徳川方の東軍に寝返る。兄政広の切腹後に流浪した。
大坂の陣では浪人衆として、豊臣秀頼に仕え大坂城に篭城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に篭るが、池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救わんとして切腹した。享年57。
嫡男・祐則は半田山で帰農し、郷長となる。子孫は曽谷氏と称し、現在に至る。
斎村政広
赤松 広秀 / 斎村 政広
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年)
死没 慶長5年10月28日(1600年12月3日))
改名 赤松広秀(初名)→斎村政広
別名 弥三郎(通称)広英(ひろひで)・広道(ひろみち)
戒名 乗林院殿可翁松雲大居士
官位 従五位下左兵衛佐。
主君 豊臣秀吉
氏族 赤松氏
父母 父:赤松政秀、母:赤松晴政の娘
兄弟 赤松広貞、広秀(政広)、赤松祐高
妻 正室:宇喜多直家の娘
子 平位利貞室、伊藤新四郎室、済村右京(熊本へ後病死)、清(新免道貞室)
斎村 政広(さいむら まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。赤松政秀の子。初名は赤松広秀(あかまつ ひろひで)。播磨龍野城、のち但馬竹田城城主。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。
■生涯
永禄5年(1562年)、播磨国龍野城城主・赤松政秀の子として誕生。母は赤松晴政の娘。正室は宇喜多直家の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広秀(あかまつ ひろひで)といった。のち斎村政広に改名する。
名字「斎村」は、父の死後一時避難していた才村(または佐江村)に由来するという。元亀元年(1570年)に父・政秀、その後に兄・赤松広貞(ひろさだ)が死去すると家督を継承した。広秀の家系の龍野赤松氏は、血統上は、本家とされた赤松義祐(晴政の子で広秀のおじにあたる)の家系(七条流)よりも、むしろ嫡流の家柄であった。
織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国攻めがおこると、はじめ抵抗したが天正5年(1577年)に降伏し、羽柴軍の蜂須賀正勝の配下となった。信長の死後は秀吉に従い、中国大返しの際には殿軍を務めた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、天正14年(1586年)に但馬竹田城主となり、2万2,000石を与えられた。
九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などにも参戦している。一方で、儒学者・藤原惺窩に教えを受けるなど、文化人としての一面もあった。朝鮮出兵の際に拉致された朝鮮の高官・姜沆とも交遊を持ち、その帰国を支援している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方に味方し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原本戦で石田方が敗れると徳川方に寝返って、石田方に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めている。ところが、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。
なお、この焼き討ち(焦土戦術)は、広秀に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行者の広秀一人に罪をなすり付けたとする説が強いといわている。さらに宇喜多秀家の義兄弟でもあったので当時逃亡中の秀家を匿っていた疑いが有ったからとも言われている。その後竹田城は亀井の配下の山名豊国により収公され廃城となった。
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