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2016年8月19日金曜日

一柳直盛

時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄7年(1564年)
死没 寛永13年8月19日(1636年9月18日)
改名 三政(初名)→直盛
別名 四郎右衛門(通称)
戒名 多宝院殿心空思斎大居士
墓所 大阪府大阪市中央区谷町の大仙寺
官位 従五位下、監物
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩 尾張黒田藩主→伊勢神戸藩主→伊予西条藩主
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直高
兄弟 直末、直盛、直道
子 娘(本多忠朝正室)、直重、直家、直頼、直良、直澄


一柳 直盛(ひとつやなぎ なおもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。


一柳直末の弟。豊臣政権下で尾張黒田藩主。江戸幕府の下で伊勢神戸藩主。晩年に伊予西条藩初代藩主となったが、領知に入る前に死去した。


■生涯


河野氏の一族である一柳直高の次男として美濃国厚見郡に生まれる。兄・直末に従って武功をあらわし、天正10年(1582年)には備中宿毛塚城攻めで武名をあげた。天正18年(1590年)、小田原征伐で直末が戦死したため、その後を継いで豊臣秀吉に仕える。秀吉から尾張国黒田城を与えられ3万石を知行。天正19年(1591年)、従五位下監物に叙せられる。豊臣秀次に属して各地で奉行として検地に携わった記録が残る。文禄元年には5000石を加増された。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与する。池田輝政・浅野幸長らとともに河田木曽川渡河の戦いや岐阜城攻め(岐阜城の戦い)に加わって功績を挙げたほか、大垣と佐和山の中間に位置する長松城の守備にあたった。このため、戦後に1万5000石の加増を受け、伊勢神戸に5万石の所領を与えられた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも功を挙げた。以後、徳川秀忠・家光の上洛や日光社参に供奉、寛永10年(1633年)には九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を命じられている。


寛永13年(1636年)6
月1日、1万8000石余を加増の上、伊予国西条へ転封となる。これにより、伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる6万8000石余の領主となった。ただし同時に家光の命によって加増分のうち加東郡内の5000石を次男の直家に分与したため、直盛の所領は都合6万3000石余である。新たな封地である伊予は、父祖河野氏ゆかりの地であったが、直盛は任地に赴く途上の寛永13年(1636年)8月19日、病のために大坂にて没した。享年73。


大坂上寺町の大仙寺に葬られた。また、伊勢神戸の龍光寺に髪塚がある。
直盛の遺領6万3000石余は分割されて、西条藩を継いだ長男の直重が3万石を相続、また次男の直家が2万3000石余(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男の直頼が1万石(伊予小松藩)をそれぞれ相続した。その後、嫡流は直重の子直興の代で改易されるが、小野藩・小松藩は廃藩置県まで存続した。

本多忠朝

時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年)
死没 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
別名 内記(通称)
戒名 三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
墓所 一心寺(大阪市天王寺区)、良玄寺(千葉県大多喜町)
官位 従五位下・出雲守
幕府 江戸幕府
主君 徳川氏
藩 上総大多喜藩2代藩主
氏族 本多氏
父母 父:本多忠勝 母:阿知和右衛門玄鉄の娘・見星院
兄弟 小松姫(真田信之室)、もり姫(奥平家昌室)、忠政、忠朝
妻 正室:一柳直盛の娘
子 政勝、千代(本多政朝正室)、娘(山口某室)、出雲守


本多 忠朝(ほんだ ただとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。上総大多喜藩2代藩主。


■生涯


天正10年(1582年)、徳川家康の重臣本多忠勝の次男として生まれる。父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。


慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴ一行のスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待し。ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
新田開発を積極的に行い、慶長14年(1609年)に国吉原、慶長16年(1611年)に万喜原の開発を奨励している。


慶長15年(1610年)、父の忠勝は亡くなる前に、軍費として1万5000両を忠朝に譲ろうと遺書を残したが、忠朝は兄の忠政は所領も広く所用もまた多いだろうといって、この金を受け取らなかった。忠政は亡父の遺命にそむくべからずといって互いに金を受け取ろうとしなかった。結局、兄弟で折半することになった(『徳川実記』)。
慶長19年(1614年)、安房国の里見忠義改易の際には、佐貫城主、内藤政長とともに館山城の破却と近辺の守備を行う。


慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが戦死した。

死の間際、忠朝は「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれ、死後「酒封じの神」として崇められている。忠朝の墓は一心寺(大阪市天王寺区逢坂)の境内にあり、「お骨仏の寺」として知られる。後に忠朝の骨は分骨されて、良信寺(良玄寺)に葬られた。


家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝を大和郡山藩主として封じた。


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小野忠明

小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)(永禄8年(1565年)とも)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪。徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に忠常。吉明ともいう。


■経歴


先祖は大和の豪族・十市氏の後裔で、安房国朝夷郡丸山郷神子上の郷士で里見氏の家来。曽祖父の神子上大藏は里見十人衆頭600石。祖父の神子上庄藏は100石で天文3年(1535年)の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡(『房総里見軍記』『里見九代記』)。父は神子上重(神子上土佐)。母は小野氏。


安房国(現千葉県南房総市)に生まれる。はじめ里見義康に仕え天正17年(1589年)11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『里見代々記』にある。やがて里見家から出奔して伊東一刀斎に弟子入りする。そしてここで兄弟子に当たる善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者に選ばれたとされる。


文禄2年(1593年)、伊東一刀斎の推薦で徳川家康に仕官して200石の禄高を与えられた。徳川秀忠付となり柳生新陰流と並ぶ徳川将軍家剣術指南役となった。このとき、名を神子上典膳吉明から小野次郎右衛門忠明と改名した(『寛政重修諸家譜』)。なお、小野姓は忠明の母方の旧姓であり、忠の字は指南役に付いた秀忠の一字を冠したものといわれる。


小野派一刀流の開祖とされることが多いが、忠明自身はこれを称しておらず、忠明の子・忠常が小野派一刀流を称し、弟といわれ一刀斎の姓である伊藤姓の継いだ伊藤忠也の流れの忠也派一刀流を含め、小野家の流れは小野派一刀流と呼ばれるようになった。後に小野派一刀流、忠也派一刀流と呼ばれた系統の開祖は共に伊東一刀斎であるが、一刀流自体の嫡流に関しては諸説がある。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で蟄居を命じられている。その後、結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石。


慶長19年(1614年)からの大坂の役にも従軍して武功を挙げたが、忠明は生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の役の後、閉門処分に処せられた。


寛永5年(1628年)11月7日、60歳で死去した。下総国埴生郡寺臺村、永興寺に葬られた。 現在の千葉県成田市、成田高校の裏山に墓がある。


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赤松祐高

生誕 永禄2年(1559年)
死没 慶長20年5月28日(1615年6月24日)
官位 伊豆守
主君 豊臣秀吉→秀頼
氏族 赤松氏
父母 父:赤松政秀
兄弟 広貞、斎村政広、祐高、さこの方(足利義昭侍女/側室)
子  祐則


赤松 祐高(あかまつ すけたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。


■生涯


永禄2年(1559年)、赤松政秀の子として誕生。天正5年(1577年)、中国地方に侵攻してきた織田氏の家臣・羽柴秀吉に兄・政広と共に降伏する。以後も秀吉に従い、半田山家鼻城1万石を領す。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは兄同様、はじめ石田三成の西軍に与するが、徳川方の東軍に寝返る。兄政広の切腹後に流浪した。


大坂の陣では浪人衆として、豊臣秀頼に仕え大坂城に篭城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に篭るが、池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救わんとして切腹した。享年57。
嫡男・祐則は半田山で帰農し、郷長となる。子孫は曽谷氏と称し、現在に至る。

斎村政広

 赤松 広秀 / 斎村 政広


時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年)
死没 慶長5年10月28日(1600年12月3日))
改名 赤松広秀(初名)→斎村政広
別名 弥三郎(通称)広英(ひろひで)・広道(ひろみち)
戒名 乗林院殿可翁松雲大居士
官位 従五位下左兵衛佐。
主君 豊臣秀吉
氏族 赤松氏
父母 父:赤松政秀、母:赤松晴政の娘
兄弟 赤松広貞、広秀(政広)、赤松祐高
正室:宇喜多直家の娘
平位利貞室、伊藤新四郎室、済村右京(熊本へ後病死)、清(新免道貞室)


斎村 政広(さいむら まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。赤松政秀の子。初名は赤松広秀(あかまつ ひろひで)。播磨龍野城、のち但馬竹田城城主。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。


■生涯
永禄5年(1562年)、播磨国龍野城城主・赤松政秀の子として誕生。母は赤松晴政の娘。正室は宇喜多直家の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広秀(あかまつ ひろひで)といった。のち斎村政広に改名する。

名字「斎村」は、父の死後一時避難していた才村(または佐江村)に由来するという。元亀元年(1570年)に父・政秀、その後に兄・赤松広貞(ひろさだ)が死去すると家督を継承した。広秀の家系の龍野赤松氏は、血統上は、本家とされた赤松義祐(晴政の子で広秀のおじにあたる)の家系(七条流)よりも、むしろ嫡流の家柄であった。


織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国攻めがおこると、はじめ抵抗したが天正5年(1577年)に降伏し、羽柴軍の蜂須賀正勝の配下となった。信長の死後は秀吉に従い、中国大返しの際には殿軍を務めた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、天正14年(1586年)に但馬竹田城主となり、2万2,000石を与えられた。

九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などにも参戦している。一方で、儒学者・藤原惺窩に教えを受けるなど、文化人としての一面もあった。朝鮮出兵の際に拉致された朝鮮の高官・姜沆とも交遊を持ち、その帰国を支援している。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方に味方し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原本戦で石田方が敗れると徳川方に寝返って、石田方に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めている。ところが、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。


なお、この焼き討ち(焦土戦術)は、広秀に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行者の広秀一人に罪をなすり付けたとする説が強いといわている。さらに宇喜多秀家の義兄弟でもあったので当時逃亡中の秀家を匿っていた疑いが有ったからとも言われている。その後竹田城は亀井の配下の山名豊国により収公され廃城となった。


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土肥政繁

土肥 政繁(どい まさしげ、生年不詳 - 天正18年(1590年))は戦国時代の武将。越中国弓庄城主。通称、四郎。官位は美作守。娘は下秀久の室。


越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代より新川郡堀江庄の地頭職として名が見える。戦国期には、神保長職の膨張に伴いこれに属した為、椎名・上杉氏との抗争に巻き込まれ没落し、弓庄城に拠った庶流の政繁が上杉謙信に臣従して辛うじて命脈を保った。


天正6年(1578年)に謙信が急死すると、多くの越中国人と同様、織田方に寝返った。しかしその後上杉方に復帰したらしく、同9年(1581年)8月、佐々成政により城を囲まれている。この時は何とか城を持ちこたえたが、上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)に降伏した。


しかし本能寺の変が起こるとまたしても上杉方に寝返る。同11年(1583年)2月には成政の越後出兵の隙を突いて太田新城を奪うなどの働きを見せるが、成政・秀吉・景勝の三者が和睦を結ぶと進退窮まり、弓庄城を立ち退き、越後に落ちて上杉景勝を頼った。


同12年(1584年)10月、上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげたが、上杉家中では冷遇され、同18年(1590年)、越後国能生で病死した。一族はその後最上義光、村上頼勝などに仕えた。


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祝重正

祝 重正(はふり しげまさ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。弥三郎。姓は岩井、諱は「吉勝」とも。


■生涯


尾張国の住民。古くから織田信長に側近として仕え、奉行などに用いられた。
初見は『信長公記』巻首における天文年間後期に開かれたと思われる年不詳7月18日の津島盆踊り大会で、この時重正は芸として巧みな鷺の鳴き真似を披露している。


天正元年(1573年)9月10日、信長を鉄砲による狙撃で負傷させた杉谷善住坊の尋問を菅屋長頼と共に行なった上で、鋸挽きによる処刑を執行した。また、外交官としても陸奥の伊達氏との窓口となっており、同年10月の下旬に伊達輝宗から贈り物を受け取っている。


天正6年(1578年)6月の播磨神吉城攻めの際には検使の大津長昌と共に派遣され、菅屋長頼・矢部家定・万見重元・長谷川秀一と番替で検分を行った。天正9年(1581年)には稲葉通明・高橋虎松らと共に所領の加増を受けている。


天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死亡した後には、信長二男の織田信雄に仕え、尾張稲葉に550貫文を知行していた。のち、信雄没落後に豊臣秀吉に仕えたらしく、『太閤記』では文禄2年(1593年)4月9日条にある名護屋城での能楽会で、重正が狂言を演じる姿が記されている。また文禄・慶長の役に同行した御伽衆の中にも名がある。
これが史料における最後の登場であり、没年などについては定かでない。

2016年8月18日木曜日

山口重政

山口 重政(やまぐち しげまさ、1564年4月6日(永禄7年2月25日)- 1635年10月29日(寛永12年9月19日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。山口氏。尾張出身。常陸牛久藩の初代藩主。家紋は大内菱。星崎城主。従五位下・但馬守。妻は小坂雄吉の娘於奈


■概要


姓は多々良氏。山口氏は室町から戦国時代初期にかけて西国の有力大名として名を馳せた大内氏の庶流で、尾張に住し織田家の家臣となった。山口盛政の長男。母は岡部正房の娘。のち尾張国寺辺城主・山口重勝の養子となった。
正室は尾張国春日井郡上条城主の小坂雄吉の娘於奈。子に山口重信(長男)、山口重長(三男)、山口弘隆(四男)、山口重恒(五男)。養女は成瀬正武正室、高木正成正室。子孫は牛久藩として続く他、水戸藩の家臣として続く者もあった。


■歴史


・尾張時代
はじめ織田信雄の家臣・佐久間正勝に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の一員として、尾張国下市場城・前田城・蟹江城が次々に落とされるなか大野城を死守して豊臣秀吉方の滝川一益と戦った(蟹江城合戦)。天正14年(1586年)、家督を相続した。


・2度の改易
天正18年(1590年)、主君の織田信雄が豊臣秀吉の駿河転封を拒否して改易となったため、信雄に従って下野にまで従う。その後、徳川秀忠の家臣となり、5000石を賜った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀忠軍に従って真田昌幸が守る信濃上田城攻撃に参加する。その戦功により戦後、常陸牛久1万石の大名となり、慶長11年に大番頭に任じられた。
しかし、慶長18年(1613年)に大久保忠隣の養女(石川康通の娘、または石川忠義の娘)と嫡男・重信が勝手に縁組したことを咎められて改易された上、武蔵の龍穏寺に蟄居させられた。


・山口家再興
蟄居後も重政の山口家再興にかける執念は凄まじく、翌年に大坂の役が始まると、徳川家康に対して「自らが豊臣氏に与した後、豊臣秀頼を暗殺するので、その代償として御家再興を許してほしい」とまで進言している。しかし、これは家康によって拒絶された。慶長20年(1615年)の夏の陣では、井伊直孝軍に属して若江の戦いで奮戦するが、前に出過ぎたため長男・重信は木村重成に討ち取られ、弟・重克も戦死した。
後年それらの戦功により、寛永5年(1628年)、常陸国牛久で1万5000石の大名に返り咲いた上、奏者番に任じられた。このとき木村重成の子孫は牛久藩に召抱えられたとする伝説がある。寛永12年(1635年)9月19日に死去した。享年72。


なお、牛久山口氏は「弘」を通字として使うが、若江の戦いにおいて井伊勢との戦いで戦死した木村重成の妹婿・山口弘定と、関ヶ原の戦いの際に加賀大聖寺城で戦死したその兄の右京亮山口修弘も『弘』を名前に含んでいる。彼らが同族であった場合、木村重成とは間接的に姻戚であったことになる。

小坂雄長

小坂雄長(おさか おなが、天正4年(1576年) - 寛永13年8月29日(1636年9月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、旗本。柏井城主の小坂雄吉の子。通称、助六郎、孫九郎。兄に小坂助六郎雄善(『武功夜話』のみ)、姉に於奈(山口重政室)、弟に小坂一長(肥後藩士)、山口吉長(旗本小坂家の祖)。子に小坂雄忠、小坂雄綱。


■概要


織田信雄に仕え、その諱を戴き雄の字を名乗ることとなる。その後、信雄の命により豊臣秀吉に仕え、文禄の役の際には肥前国名護屋城に赴く(その際、父・雄吉は同所で死去している)。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島正則の配下として東軍に属した。


戦後は松平忠吉に仕えたが忠吉が若くして没し、その後は福島正則の下に身を寄せたり、各地を流浪したりしていたが、姉の夫である山口重政が雄長のことを酒井忠世に上申し、寛永10年(1633年)に1000石の旗本として取り立てられた。寛永13年(1636年)、上野国草津において61歳で死去。法名は宗最。

辻重勝

辻 重勝(つじ しげかつ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。田中吉政家臣。通称、勘兵衛。


関ヶ原の戦いで岐阜城を攻略。石田三成追撃を開始。河渡で交戦し、石田軍の殿杉江勘兵衛を討った。吉政が関ヶ原の戦功で筑後国柳川城32万石の大名になると、猫尾城代を勤めた。


杉江勘兵衛、羽柴秀勝家臣の渡辺了(勘兵衛)とならんで「三勘兵衛」と言われる。

杉江勘兵衛

杉江 勘兵衛(すぎえ かんべえ、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将。稲葉良通家臣、後に石田三成の家臣。


同じ石田家臣の島清興、前野忠康と並んで勇猛さを謳われた。
関ヶ原の戦いで、岐阜城に進軍中、藤堂高虎、黒田長政、田中吉政の兵と河渡で交戦。吉政の家臣辻重勝に討たれた。


辻重勝(勘兵衛)、羽柴秀勝家臣の渡辺了(勘兵衛)とならんで「三勘兵衛」と言われる。

前野忠康

生誕 永禄3年(1560年)
死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)?
別名 舞兵庫、舞野兵庫助
主君 豊臣秀長→石田三成
氏族 前野氏→舞氏
前野長康
男子


前野 忠康(まえの ただやす)は、安土桃山時代の武将。黄母衣十三人の一人。初め前野 兵庫と呼ばれる、一般的には舞兵庫(まいひょうご)の名で知られている。

■経歴


室は豊臣氏の家臣・前野長康(坪内光景)の娘とされる。初めは豊臣秀長に仕え、黄母衣十三人の一人となる。秀長が死去した後に、大場土佐と共に石田三成に召し抱えられている。


慶長5年(1600年)8月23日の合渡川の合戦では兵一千を率いて、黒田・田中隊と闘ったが、敗れて杉江勘兵衛を殿軍として退却した。関ヶ原の戦いでは小池村の二重柵の前に陣列し、戦闘に臨んだが、その生没は不明である(『常山紀談』『関原軍記大成』)。

前野景定

生誕 不明
死没 文禄4年8月19日(1595年9月22日)
別名 坪内(前野)長重(別名)
官位 出雲守
主君 豊臣秀吉→秀次
氏族 坪内氏→前野氏
父母 父:前野長康こと坪内光景
正室:細川忠興の長女・御長


前野 景定(まえの かげさだ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。本名は坪内景定。


■生涯


羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そして、父と共にそこで秀吉の命令により切腹した。


なお景定の妻・御長(おちょう)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。

小坂雄吉

小坂 雄吉(おざか およし/かつよし、大永6年(1526年) - 慶長6年9月13日(1601年10月8日)、あるいは天文21年(1552年) - 文禄2年7月14日(1593年8月10日))は戦国時代・安土桃山時代の武将で、上条城、吉田城主である。


別名、前野 宗吉(まえの むねよし)、前野 雄吉。通称、孫九郎。幼名、千代太郎。
小坂政吉の子、あるいは前野宗康の長男で、前野長康の兄(ただし、その出典は『武功夜話』で、その内容の信憑性には議論がある)。子に雄長、一長、山口吉長、於奈(山口重政正室)らがいる。弟子に前野清助、前野九郎兵衛らがいた。


■概要


幼少期は吉田城で育ち、修験者であった覚然坊から棒術を習った。身長は約180センチメートルある大男だったといわれている。その後、織田信長に家臣として仕える。信長の命令により、母の生家である吉田城主である小坂氏の跡を継ぎ、小坂孫九郎尉宗吉と称した。その後織田信雄の傅役を務め、信雄より「雄」の1字を拝命し、小坂孫九郎尉雄吉と改名した。


弘治2年(1556年)に稲生の戦いの際には、比良城主の佐々氏らと共に奮戦し、織田信長からも高く評価されたといわれている。
永禄5年(1562年)に小口城攻めの際に小坂雄吉は犬山城の反撃に対する守備のため、尾張国丹羽郡前野村で警備につき、永禄7年(1564年)まで前野村に在住したといわれている。
その後、墨俣城築城に従事して上条城に戻ったが永禄10年(1567年)の夏頃に軍備を整え伊勢国へと出陣した。滝川一益を総大将にして、生駒家長、森正成、森雄成(正成の子)、森正好(雄成の弟・雄秀のことか)らと共に伊勢国河内中江に居陣した。吉田城の留守居には前野直高が任命された。


天正18年(1590年)に信雄が豊臣秀吉により改易された後は尾張国丹羽郡前野村に蟄居した。その後、文禄の役の際に信雄と共に肥前国名護屋城に赴くが、文禄2年(1593年)7月14日に42歳で死去した。あるいは慶長6年(1601年)9月13日に76歳で死去したとも。

前野長康

前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。


生誕 享禄元年(1528年)
死没 文禄4年8月19日(1595年9月22日)
別名 喜太郎、後に小太郎(幼名)、将右衛門(通称)、坪内光景(実名)
戒名 義道空心大禅定門
墓所 愛知県江南市前野町観音寺
官位 従五位下、但馬守
主君 豊臣秀吉→秀次
氏族 坪内氏後に前野を称す
父母 父:坪内勝定、武功夜話上の父:前野宗康
兄弟 武功夜話上の兄:小坂雄吉(上条城主)
実弟 坪内利定
義兄弟 蜂須賀正勝
景定、娘(前野忠康室)


■名称について


本名は坪内 光景。公的文書には本人は坪内光景・坪内長泰・富樫長泰、良岑長泰と署名している。

通称は将右衛門。元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿であり、別名を坪内長康とも言われているが、その出自は『武功夜話』に依拠するところが多い。定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である。


なお、松倉城は戦国時代は尾張国葉栗郡にあったが、安土桃山時代の木曽川の洪水の後の境界変更により、美濃国羽栗郡に変わる。美濃松倉城は正確といえない。


■生涯


羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣一夜城築城に協力したといわれている。


信長没後、秀吉が天下人に上る過程の天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正13年(1585年)の四国攻めに参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨国三木から但馬国出石に5万3,000石で加増移封された。


豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、11万石に加増されている。
豊臣秀次付の家老となった後、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、自害を命じられた。享年68。


■武功夜話


昭和62年(1987年)に新人物往来社から刊行された『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記であり、従来の学説を根本的に覆す歴史的にみても非常に貴重な史料と一時は注目された。しかし、使用されている語彙の一部が現代人に容易にわかるものがあり、五宗記部分の信憑性は立証されていない。






飯尾定宗

飯尾 定宗(いいのお さだむね、生誕不明~死没 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。尾張国中島郡奥田城主。織田氏流飯尾氏の祖。官位は従四位下・近江守、侍従。


織田敏定の子で織田信秀の叔父、または敏定の孫で信秀の従兄弟とされるが、織田敏定と定宗及び子の尚清の年代から見ると、後者のほうが有力とされる。奥田城主となり、斯波氏の一族とされる尾張の土豪飯尾氏の養子となった。


弘治2年(1556年)6月、織田信長に従って、嫡男・尚清と共に守山城攻めに従軍。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで信長の命により、子の尚清と叔父の織田秀敏と共に今川軍の備えで鷲津の砦に置かれる。しかし、5月19日に朝比奈泰朝ら今川軍の猛攻をうけ敗死した。家督は尚清が継いだ。


室町幕府将軍の直臣として、相伴衆に加わったとされるが、恐らくは幕臣の飯尾氏と混同されたものと思われる。


氏族 織田氏→織田氏流飯尾氏
父母 父:織田敏宗または織田敏定
妻 細川晴元娘
子 尚清(信宗)、重宗(敏宗)


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平手久秀

平手 久秀(ひらて ひさひで、1525年5月22日(大永5年4月30日) - 1574年8月18日(天正2年8月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。監物ともいう。平手政秀の嫡男とされる。


■経歴
『信長公記』に登場する、主君織田信長から所望された駿馬を献上することを拒み、父政秀切腹の原因となったといわれる「五郎右衛門」がこの久秀だとされることもある。 この五郎右衛門は、長兄とされる長政や叔父の野口政利とされる諸説があるため確証はない。

また、五郎右衛門以外の政秀の男子として名の挙がる「監物」と「甚左衛門」はこの久秀のこととも、久秀の子(又は弟)の汎秀のことともされる。 信長に従い、各地で転戦したが、1574年の伊勢長島一向一揆平定戦で討ち死にしたという。


末弟(あるいは子)の 汎秀は前年の三方ヶ原の戦いで戦死していたため、平手氏嫡流は断絶した。



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